端午の節句の由来は?なぜこどもの日になったの?

5月5日は、「こどもの日」として祝日に定められていますよね。

この日は、男の子の成長や立身出世を願ってお祝いをする1日です。

でも、そもそもの端午の節句とはいったいなんなんでしょうか?

なぜ、端午の節句の日が「こどもの日」なのでしょうか?

これは、国会の議事録から意外な理由が分かりましたよ。

今回は、この辺りを調べてみました。

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端午の節句の由来とは?

端午という言葉の「端」は「はじめ」という意味で、端午で「月初めの午(うま)の日」という意味になります。

なので、他の月の「午の日」も端午と言え、実際に、最初は5月以外にも使われていたんです。

それがなぜ5月5日だけになったのかと言えば、5月5日は「五」が2つも重なるからなんですね。

5が重なる「重五(じゅうご)」がより縁起がいいとして、中国の漢の時代以降に、端午といえば5月5日をさすようになりました。

しかし、「年中行事要言」によれば、「午」が「五」に通じることから、もともと中国では5月5日を「悪日(あくび)」としていました。

そのため、厄払いとして、野外に出て薬草を摘んだり、「競渡(けいと)」という舟漕ぎ競走をしたり、菖蒲を浸した酒を飲むなど、病気や災いをはらう行事が行われていたんです。

でも、ここで疑問が浮かびます。

なぜ、「午」が「五」に通じると「悪日」になるんでしょうか??

つまり、「午」という字が縁起が悪いってことになりますが。。。

と思って、ネットで調べてみたら、とても参考になる記事を見つけました。

「午」は「馬」に非ず。

「午」の語義は「忤」です。「さからう」です。逆らうのです。つまりひっくり返るときです。

「午=忤」はこのように、勢いがついたものが最高点に達し、やがて落ちていく転機をさします。

すべて、奈良慈眼寺 副住職さんのブログから引用させていただきました。

なるほど、「午」はピークから落ちていくさまを表しているんですね。

これなら、「午」が縁起が悪いのも納得です ヽ(´ー`)ノ

さらに、日本の場合について少し言及しますと、日本の端午の節句は、聖武天皇(724~749)の時代といいます。

「続日本紀」によれば、この一日、菖蒲を飾り物にしたとあります。

菖蒲に関する起源は、これによるものといわれています。

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なぜ5月5日はこどもの日になったの?

5月5日こどもの日は、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかる」日として、第二次世界大戦後の昭和23年(1948)に「国民の祝日に関する法律」によって定められました。

さらに、昭和26年5月5日には「児童憲章」が定められ、「こどもの日」の5日から11日までの一週間が「児童福祉週間」となっています。

ちなみに、世界的に見たら「世界こどもの日(Universal Children’s Day)」は、11月20日です。

1954年の国連総会で採択されています。

それでは、日本では、なぜ5月5日が「こどもの日」になったのでしょう?

「第2回国会会議録 文化委員会第5号」に、次のような記録が残っています。

○武藤專門調査員 今日まで提出受理になつておりまする請願の項目だけ御紹介申し上げます。これは公報に載つております通り、第二四一号「第まつりを祝祭日に指定の請願」というのが本委員会の山名議員御紹介のもとに提出されております。それから第二六三号「発明祭を祝祭日に指定の請願」これが馬場委員御紹介のもとに提出されております。それから第三六四号として「明治節を祝祭日に指定の請願」が竹尾委員を紹介議員として提出されております。それから第四一一号、「こどもの日を祝祭日に指定の請願」が松沢議員紹介のもとに提出されております。それからまだこの文化委員会に正式には付託になつておりませんが、それ以後提出されたものとして、第五〇四号「教育節を祝祭日に指定の請願」が青木議員紹介のもとに提出されております。それから第六九〇号「こどもの日を祝祭日に指定の請願」が最上委員御紹介のもとに提出されております。それから別に陳情といたしまして、第一八三号「花祭り並びに益を國家祝祭日に決定の陳情」というのが提出されております。これらの要旨は請願文書表並びに陳情文書表に記されている通りでございます。
 それから本文化委員会あてに寄せられました輿論調査ないし投書のその後の分を御紹介申し上げますと、結局おもなる項目といたしましては、子供の日ないし兒童デーと申しますのと記元節と二つになります。それで子供の日ないし兒童デーにつきましては、團体といたしましてはまず厚生省の兒童局企画課から、五月五日を子供の日に指定してほしいという要望がよごされております。それから鳥取縣の中等学校の教職員十二名から、五月五日を子供の日にしてほしい、それからこの前、東京都の保育連合会からは五月五日に子供の日をということでありましたが、今度全國保育連合会からは十一月十五日を子供の日にしてほしいという要望がよこされております。また個人といたしましては、二百十二名の人々から五月五日を子供の日に指定してほしいという投書がよこされております。
 それから記元節につきましては、團体といたしまして福島縣教育部長の輿論調査のもとに、二月十一日の記元節を存置してほしいという要望が來ております。それから島根縣知事の輿論調査として、二月十一日の記元節を存置してほしい、その存置を希望するものは九五・五%だと申しておりますが、場合によつては紀元節という名前は変えてもよろしいという者もおるということが記されております。それから島根縣浜田市の人々二千九百五十三名から、紀元節二月十一日を存置してほしいということがよこされております。それから紀元節廃止を言つてよこしたのは民主主義科学者協会であります。
 そのほか特殊なものといたしまして七曜祭――日曜、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜とあり、日曜日には日を祭り、月曜日には月を祭るというような特殊なものが來ております。それから聖徳太子薨去の日を祝祭日にしてほしい、教育記念日を五月三日として制定してほしい、それから八月十五日の祝祭日は廃止すべきであるというようなことがよこされております。そのほか交通公社からも祝祭日案というのがよこされておりますが、この文化委員会の仮案と大体同じであります。さよう御承知おき願いたいと思います。

第2回国会会議録 文化委員会第5号より

簡単に上の引用について説明しますと、次のようなことです。

1948年4月13日に第2回国会が開催されました。

その国会で祝祭日に関する話し合いが行われ、上の引用では専門調査員の武藤氏が、「祝祭日に関する輿論調査ないし投書で、多くの人や団体が5月5日を「子供の日」としてほしいと要望している」といったことを発言しています。

つまり、なぜ「こどもの日」が5月5日になったのかと言えば、その日が国民の要望が多かったからと言えます。

また、「端午の節句」との関係から見れば、この日は、男の子の成長を祝う日です。

「子供の成長を祝う」という趣旨は「こどもの日」と通じるものがあります。

そういった事から、国民の要望が5月5日に多かったと考えられます。

なので、「こどもの日」は、男の子と同じように女の子も祝ってあげたいところです。

女の子だけの家庭では、鯉のぼりは飾らないのが普通ですが、菖蒲など季節の花を飾り、柏餅やちまきを食べ、菖蒲湯に入ってお祝いするのは同じですよ。

これでお祝い!端午の節句のフルコース

昔は、軒下に菖蒲とヨモギの葉を挿して魔除けにする風習もありましたが、近年はほとんど見かけなくなりました。

現在、子供の為に「端午の節句をきちんとやってあげたい!」って思われる方は、以下のものが現代のフルコースになります。

  • 武者人形・兜を飾る
  • 鯉のぼりを立てる
  • 菖蒲湯に入る
  • 柏餅とちまきを食べる

これだけやってあげれば、心残りもないですね。

もっとも、管理人のような貧乏ひまなしのマンション暮らしではフルコースはきびしいですけどね~ (ToT)

まあ、やってあげる気持ちが大事ってことで。

それでは。

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